選べないということ。

こんにちは!

7月もすっかり終盤戦ですね!いやはや。

 

情報というものが多すぎるな!とここ数年ひしひしと感じます。

インターネットが流行りだしてからのことです。

SNSで繋がるのが当たり前になってからのことです。

テレビで何百チャンネルも見れるようになってからのことです。

 

何気なくパソコンやスマホの画面を眺めているだけでも,手におえないくらいの大量の情報がダムの堰をきったように次々と流れてきて,別に自ら求めていたわけではないけれどちょっと気になる記事を読んでみたり,これも読もうあれも見ようと何個もブックマークしていると,それだけで大切な一日が終わってしまいそうになって,ゾッとするといったことがよくあります。

小さな画面越しにいろんなものを見て,何かを知った気になったり経験した気になったりしますが私のここに在るこの身体自体は一歩も外に出ていないし物理的に何も経験していないのです。ゾッとします。

もちろんパソコンやインターネット,スマホなどの進歩によって格段に便利になった点は多くあるので必ずしも悪いことではないのですが。

技術の進歩とおんなじ比率で人々の幸福度が増しているかと言われればそうではない気がします。

 

昔は(ほんの10年20年前です),情報の量が現在とは比べものにならないほど少なかったです。

友達が今どこで何をしているかなんて知る由もなかった。メールが浸透してない時代は約束だって口頭や電話だった。

テレビだってNHKと民放で6チャンネルぐらいしか映らなかった。僕の地元の山形では僕が中一の時にさくらんぼテレビができるまでの数年間,フジ系列も映らなかったんだぞ!コラ!( ゚Д゚)
そしてビデオに録画でもしない限りは再放送を期待するか録画した友達から借りるかしない限りはもう見ることのできない幻の映像なのだ。

懐かしい。

少なかった。情報が。

現在のこの情報量や技術を知ったまま過去にタイムスリップしたら,それはもちろんかなりの不便を感じることでしょうが,当時はそれでなんの不便さも感じていなかったわけだし,決して不幸せではありませんでした。まぁ,「知らない」のだから当たり前だけれど。

でも一つ確かなことは,一昔前は,目の前にあるものや身の回りの身近なものに,より集中できていたというか,迷いが少なかったように思います。

ここに居ながら携帯であの人のことや別の場所をチラチラ気にすることがなかった。楽しむテレビ番組は毎日もうすでに決まっていた。

選ぶ対象がそもそも少ないのだから本当にただ当たり前の話なんですけど。

でもこの情報社会で生きているとこの「知らない」「選べない」という状況は,実は結構幸せなんじゃないかと思ったりもします。

これもきっとただのないものねだりでしょうけれど。だってその時代に,この現在の状況(インターネットやらYouTubeやらスカパーやら)の話を聞いたとしたら,夢のような素晴らしい世界だと思うだろうし,手に入れたくなるはずです。

 

僕は山形の田舎で育ちましたから,たとえ同じ時代だとしても,仙台よりは格段に情報は少ないです。

さすがにネット社会なのでインターネット的なことはそれほど差がないとは思いますが,例えば街です。僕は仙台に来たばかりのころ,何をどこで買えばいいのか,全然わかりませんでしたよ!( ゚Д゚) お店だらけで。

田舎になればなるほど,選ぶことはできなくなっていきます。野菜はあの店,お酒はあそこ,肉はここといった具合に。

もっと田舎になれば,お店の業種=その人自身の呼ばれ方になったりもしますよね!
人を呼ぶときに電気屋さん!とか魚屋さん!とか。街にその業種が一店舗しかなかったらもうそうなっちゃうのです。

それはそれでとても便利なことです。だって迷う必要がないですから。限られた時間も有効に使えます。

こんなことを思ったのも,こないだお客さんに言われたことがきっかけです。

うちは小さいお店なので,やはり商品数も少ないです。楽しそうに陶器を見てくださっていたお客さんに,「笠間の陶器市にはもっともっとたくさんの作家さんの陶器が見きれないくらいずらーっと並んで,ほんとに楽しいんですよ~!」とお話したら,「でも私はこうやって感性が近い人が選んできてくれたものを見てる方が好きだわぁ~」とおっしゃったんです。

なるほどー!と思いました。

宮町の陶器屋さん!になれたらいいなぁ。

 

きっと現代社会,みんな情報の海にうんざりしているのではないでしょうか??

だからどんどん人任せになるのです。なんでも人に聞いちゃうのです。

おすすめは何ですか??って。

そしてその情報こそが最高!と信じ切って人任せで生きてしまう気がします。本当はただ自分で選ぶのが面倒くさいだけです。

お店に入って,選ぶものが少ない・情報が少なければ自分で決められるはずですからね!これが欲しい!って。

「選べないという幸せ」は確実に存在しますね!

 

しかし現在は本当にたくさんの情報やもので溢れかえっていて,選択肢が限られている状況の方が珍しいくらいです。

こうなればもう,徹底的に自分自身とゆっくり向き合って,自分は何を必要としていて何が不必要か,何に心を躍らせ何が原因でテンションが下がるのかをじっくり見極め,その判断能力を養っていく必要があると思われますね。自分を改革するしかありません!

自分がしっかりしていれば,きっと情報の多さは怖くないはずです。惑わされることもない。

自分と会話せずに情報社会に臨むことなんて,寝起きでパジャマ姿のままメガネもせず,歯ブラシとコップを武器に「ヤー!」と戦に臨むようなものです。

まずは物理的に捨てることです。生活をしているとなぜかわけのわからないものが増えていくのです。どこで,何のために買ったんだっけ??‥いや,拾ったのか??

そういったものを迷わず全て捨てることです。僕は最近たくさんのものを捨てましたが結構すっきりします。もっともっと捨てたいです。

やはり心はシンプルを望むのだ。捨てれば捨てるほど迷いは減る。

 

長くなってしまいました。。

文章ももっと推敲してすっきりできるだろうに。

僕のこのブログも,きっと誰かにとっては不必要極まりないものになり得よう。捨ててくれればいいのだ。

 

先ほどないものねだりの話もしましたが,一昔前に,たくさんの情報を求めて求めて求めまくった結果が現在の情報社会なのです。そしてたくさんの情報を手にした結果,シンプルを求めるのです。

ないものねだりです。

そして歴史は繰り返すともいいます。

平和に慣れすぎた人々が決して戦争を求めないことを願います。

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